第2話 舞鶴市民病院崩壊

  • 2010.12.26 Sunday
  • 16:29

12月25日の続き

2002年9月に新しく舞鶴市民病院院長に就任した田中院長は、当時の市長の意をくんで、「内科系専門性の確立と新たな診療科の追加」を強調した。当時、市民病院内科医を率いる松村副院長(昨日の記載には松村理可と書いたが、正しくは松村理司であり、お詫びして訂正する)はこの方針に一定程度妥協していた。しかし、当時は厚生労働省の方針として、内科系病床を急性期病床と療養病床に区分をすることが迫られた時代で、かつ、舞鶴地域(特に東舞鶴)の急性期医療は供給超過密である一方、亜急性期・慢性期医療は圧倒的に不足していたので、舞鶴市民病院が生き延びるにはケアミック(1つの病院が急性期医療と慢性期医療あるいは介護療養型の機能を併せもつこと)しか無いと考えていた。
(参考書 松村理司著、医学書院発行、地域医療再生する)
このような地域の特異性があるにも関わらず、舞鶴市が急性期医療の継続を主張し、松村副院長の考えは聞き入れられなかった。そのため、多くの総合内科医を育ててきた舞鶴市民病院内科が終焉を迎える局面が来た。この内科医の穴埋めを京都大学に依頼したが、折り悪く平成16年4月より新卒後臨床研修病院制度が始まり大学病院には派遣する医師が居なくなり、約20年間続いてきた国内でも有名な内科医研修施設が平成16年3月末で消滅した。16年4月以降は外科系医師が内科不在の診療を補足しながらの苦しい船出が始まった。舞鶴市民病院に残った医師達の我慢も限界となり、平成17年末には舞鶴市民病院の脳神経外科と歯科・口腔外科を舞鶴共済病院に移管する方針を立てて、平成18年3月末で舞鶴市民病院は急性期病院の機能をすべて失った。

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