最終話 病院再編問題および舞鶴市民病院問題の解決案

  • 2010.12.30 Thursday
  • 19:02


1.病院再編問題について

 
 舞鶴市の永い歴史からは、東西舞鶴のバランスを考慮した医療体制を構築することが求められている。東舞鶴の医療体制は充実しており、舞鶴医療センターおよび舞鶴共済病院には、引き続き独自の運営をお願いする。東舞鶴と比較すると西舞鶴の医療体制は不十分であり、舞鶴赤十字病院の急性期医療をより充実させ、若い医師が研修できる環境を整備する必要があり、舞鶴赤十字病院に対しては積極的な支援をする予定である。いずれにしても、現在舞鶴市内で勤務しているすべての医師、看護師などの医療スタッフが引き続き当地域で働いて頂けるような気配りが必要である。そのことには誠心誠意で対応したいと考えている。
 安易な支援は無駄に繋がると思われ、各々の病院の管理者と話し合い、当地域の医療に貢献して頂く案件については積極的に支援したいと考えている。健全な経営を目指す意識がある場合には積極的な支援をする。
医療に対する国および府からの補助金は、その趣旨を理解し公平かつ有効に利用するために,その問題の解決には舞鶴医師会をはじめとし関連する方々としっかり話し合い、その結論は公開を原則とする。また、補助金が関連した案件につきましては、その期限内に結論を出して、目的が達成するように努力する。将来的に舞鶴市民病院を除く3病院が上部団体の管理から外れた時に1つに纏めるべきであると考える。



2.市立舞鶴市民病院問題について

 
 この問題はまさに舞鶴市の問題であり、独自で解決に導く所存である。一般的に、病院の外来機能は入退院の窓口であり、療養病床のみの病院において専門外来は必要ない。当面は療養病床の運営を主たる役割とし、専門外来については他の3病院および診療所に割り振りをする予定である。専門外来を手伝って頂いている医師には、他の3病院への支援をお願いする予定である。いずれにしても、私が医療人として、舞鶴市民病院の職員と腹を割って話をして、舞鶴市民にとって役に立つ、そして効率の良い運営をする。また、当然のことながら、市民病院職員の雇用は守る。



3.医師確保対策について

 
 私の立場は舞鶴市を守る、舞鶴市全体の医療を守ることが使命であり、各々の病院の管理者と話し合い、どの診療科を補強したいのか、その考えが舞鶴市の医療にどのように貢献するのか、そして実現可能なのかについて検討して、分け隔て無く医師確保に奔走する。幸いにも、私には多くの医学部(金沢大学、福井大学、金沢医科大学、岡山大学、京都府立医科大学、京都大学、近畿大学、関西大学など)に人脈があり、各々の病院が必要とする医師が舞鶴市にとって役立つと考えた場合には、どの病院のためにもその獲得に奔走する
 現在の舞鶴市のやり方と決定的に異なるのは、医療現場の方々と話し合い、まさに医療現場でのツールであるインフォームド・コンセント(説明同意)を取り入れる。人材の適材適所配置、各々の部署や個々人の仕事の質と量を考慮して、効率の良い運営を行う。

 最後にこれらの解決策については、社団法人舞鶴医師会並びに京都府医師連盟の同意を得ている。


ボタン(1).gif ボタン(2).gif ボタン(3).gif ボタン(4).gif ボタン(5).gif

第5話 舞鶴市の医療再編対策を総括する

  • 2010.12.29 Wednesday
  • 21:34

平成19年2月に行われた舞鶴市長選挙戦での齋藤市長の公約は「舞鶴地区の医療再編を行う」では無く、「舞鶴市民病院を再建する」であり、その方策について舞鶴医師会に相談を持ちかけたが、医師会としては、舞鶴市民病院の再建は舞鶴市の問題であり、齋藤市長自身が解決すべきであると回答した。すなわち、当時の舞鶴市は市民病院の運営には困っていたが、舞鶴市民は市内の医療体制において困っていなかったのが現状であった。
そういった中で、将来的に発生する可能性の高い医療問題について、舞鶴地域医療あり方検討委員会が発足し、一般論(理想論)として纏めあげられたのが、『将来的に舞鶴市内の病院を1ないし2病院に再編し、ひとつの運営組織で管理し、その適正病床数は約700床である』との結論であった。
この答申の中には「舞鶴市民病院の再建」についての記載は無く、『再編案が完成するまでは、舞鶴市民病院は救急医療の手助けをする病院として引き続き運営する』との文言が齋藤市長の要請で追加された訳である。その答申を1年以上放置した後に、唐突にも4つの病院を1つにするとの極めて乱暴な結論を提示した。当初より、誰もが経営母体が異なる4つの病院を短期間に一つに出来るはずが無いと指摘し、その現実は今も変わり無い状態である。
自民党政権から民主党政権に移行する直前に決定した100億円の地域医療再生基金を利用して、この地域の医療再編を早急に行おうとしたものである。これは医療現場の意見を全く聞かず、かつ、医療の本質を全く分からない方の独裁的な考えである。案の定、舞鶴共済病院の職員および上部団体は反対し、また、舞鶴赤十字病院の職員も反対したのは当然のことである。しかし、反対するものはすべて悪であるとの行政側からのアナウンスは、どれだけ医療人の心を傷つけたのかを理解していない。ご承知のごとく、勤務医、看護師およびコメディカルのスタッフは奉仕と犠牲心を持って働いており、これらの人達に信頼と感謝の念を持たねば、舞鶴の医療は根本的に崩壊すると思う。
舞鶴共済病院が参加しないため、3病院での再編に変更となったが、2ヶ月ほど前(舞鶴市議会9月定例議会での市長答弁)に『舞鶴医療センターの敷地内に400床規模の2.5次(こんな定義はありません)救急を担う病院を建設し、舞鶴市民病院を新しくできる病院に吸収する』と発表した(平成21年4月に、4病院を1つに、その後3病院を1つに、そして、今回は2病院を1つに再編と変化し、その方針には全く理念が無い)。そして、次の市長選挙に備えて、舞鶴赤十字病院は西の連携拠点病院として、そのまま継続して運営すると発表した(しかし、本音は、舞鶴赤十字病院は外来機能だけにする構想である)。
舞鶴医療センターはもともと395床の急性期病床を有していたが、その病床規模は徐々に縮小し、現時点では300床以下の運用となっている。従って、400床規模の病院が健全に運営できるには、医師、看護師の補充と100床以上の病床を満たす患者さんが必要となる。舞鶴医療センター内に新設される病院の計画に医師補充が必要との認識があり、京都府および京都府立医科大学に依頼してあるとのことであるが、昨今の若い医師のマインドと医局の力からは、新たに京都市内から20〜30人の医師が確保できるとはとても思えない。従って、舞鶴市内における医師、看護師そして患者さんの獲得競争が始まる。そして、いずれの病院もその経営は成り立たなくなり、舞鶴医療センター内に約100億円もの資金を投入した新病院はまさに箱物となり、毎年の運営に必要な補填は現在の舞鶴市民病院の数倍にも達することが推測され、税金の大きな無駄が持続し、かつ、この地域の市民は適切な医療を受けることができず、路頭に迷うことが十二分に想像できる。
舞鶴市民病院は専門外来と療養病床の機能を併せ持つ世にも奇妙な病院であり、病院運営の知識が無いことを如実に物語っている。この奇妙な病院機能を舞鶴医療センター内の新病院に移行するとの発表は、次の市長選挙での責任逃れをする作戦に他ならない。

ボタン(1).gif ボタン(2).gif ボタン(3).gif ボタン(4).gif ボタン(5).gif

第4話 舞鶴地区4病院の変遷

  • 2010.12.28 Tuesday
  • 23:39
舞鶴市内4病院の外来1日平均患者数2.jpg 上の図は、平成14年度から平成21年度までの舞鶴市内4病院の1日平均外来患者数の推移を示す。
平成16年から新卒後臨床研修病院制度が開始された頃より、舞鶴市内のすべての病院の外来患者数は減少し、平成14年度と21年度との比較では舞鶴市民病院が約500人減、次に舞鶴医療センターで約300人減、そして、舞鶴共済病院と舞鶴赤十字病院が各々100人減であった。 舞鶴市内4病院の入院1日平均患者数2.jpg また、上の図で示す入院1日平均患者数では、舞鶴共済病院と舞鶴赤十字病院(約50床の療養病床入院患者数を含む)は、ほぼ横ばいであるが、舞鶴医療センターの入院患者数(図では精神科病床の入院患者数を含む)は激減し、舞鶴市民病院の急性期病床は無く、図での入院数は療養病床のみである。平成5年くらいまでは人口が10万人に満たない小さな地方都市で公的病院の病床数が1100床あり、日本でも有数の急性期医療過密地帯であったが、近隣の市町村の医療が充実したために、舞鶴市内への患者流入が減少し、病院の自然淘汰現象が発生した。
厚生労働省のホームページより抜粋し編集した平成21年度のDPCのデーターからは、舞鶴市、綾部市および福知山市を含む中丹2次医療圏および近隣市である宮津市内のDPC対象病院の地域貢献度(症例総数、手術件数など)は下の表の通りである。

京都府 高度医療件数 (平成21年度) 京都府高度医療件数
厚生労働省のホームページより抜粋  

このような病院の変遷はそれぞれの病院職員の努力並びにそれを支える経営母体の取り組みを反映した結果であり、現場の医療従事者の意見を全く聞かずに、行政が勝手に再編を考えることは断じて、してはならない。

ボタン(1).gif ボタン(2).gif ボタン(3).gif ボタン(4).gif ボタン(5).gif

第3話 舞鶴市民病院のずさんな事業会計決算

  • 2010.12.27 Monday
  • 23:48
市立舞鶴市民病院は平成16年3月末に崩壊が始まり、平成18年3月に末に完全に崩壊した。平成16年から18年は全国の地方病院における医師確保は極めて困難であり、舞鶴地区も同じであった。平成19年2月に市民病院問題を争点として舞鶴市長選挙が行われ、「舞鶴市民病院再建」「舞鶴市の財政再建」を訴えた現市長が当選した。現在の市長に代わってからの舞鶴市民病院の事業会計決算を紹介する。 事業収益に関する事項.jpg 事業費用に関する事項.jpg
平成19年度の医業収益が3億円にも関わらず、その年度の給与費が7億3千万円、平成20年度は5億1千万円の収益で 8億4千万円の給与費、平成21年度は6億5千万円の収益で8億円の給与費であり、でたらめの事業会計決算である。この事実を公開もせずに、市民病院の事業成績は年度毎に着実に改善し、黒字経営かの報告を舞鶴市の広報に載せてきた。さらに、このでたらめな事業会計決算を報告した舞鶴市民病院の急性期医療の役割は、舞鶴市全体の5%未満であり、他の3病院が簡単に肩代わりできる仕事量であった。19年度から21年度までの総補填額(医業外収益の総和)は約32億円となり、多額の血税をどぶに捨てたことになる。この事を舞鶴市民は知らされていたのだろうか?このようなずさんな市民病院の運営は市議会で問題となったが、市長の独断で予算を強硬に通してきた。これは暴挙としか言いようがないにも関わらず、市民病院問題がこじれているのは保守系の市議会議員の反対のせいであると言い続けてきた。

ボタン(1).gif ボタン(2).gif ボタン(3).gif ボタン(4).gif ボタン(5).gif

第2話 舞鶴市民病院崩壊

  • 2010.12.26 Sunday
  • 16:29

12月25日の続き

2002年9月に新しく舞鶴市民病院院長に就任した田中院長は、当時の市長の意をくんで、「内科系専門性の確立と新たな診療科の追加」を強調した。当時、市民病院内科医を率いる松村副院長(昨日の記載には松村理可と書いたが、正しくは松村理司であり、お詫びして訂正する)はこの方針に一定程度妥協していた。しかし、当時は厚生労働省の方針として、内科系病床を急性期病床と療養病床に区分をすることが迫られた時代で、かつ、舞鶴地域(特に東舞鶴)の急性期医療は供給超過密である一方、亜急性期・慢性期医療は圧倒的に不足していたので、舞鶴市民病院が生き延びるにはケアミック(1つの病院が急性期医療と慢性期医療あるいは介護療養型の機能を併せもつこと)しか無いと考えていた。
(参考書 松村理司著、医学書院発行、地域医療再生する)
このような地域の特異性があるにも関わらず、舞鶴市が急性期医療の継続を主張し、松村副院長の考えは聞き入れられなかった。そのため、多くの総合内科医を育ててきた舞鶴市民病院内科が終焉を迎える局面が来た。この内科医の穴埋めを京都大学に依頼したが、折り悪く平成16年4月より新卒後臨床研修病院制度が始まり大学病院には派遣する医師が居なくなり、約20年間続いてきた国内でも有名な内科医研修施設が平成16年3月末で消滅した。16年4月以降は外科系医師が内科不在の診療を補足しながらの苦しい船出が始まった。舞鶴市民病院に残った医師達の我慢も限界となり、平成17年末には舞鶴市民病院の脳神経外科と歯科・口腔外科を舞鶴共済病院に移管する方針を立てて、平成18年3月末で舞鶴市民病院は急性期病院の機能をすべて失った。

ボタン(1).gif ボタン(2).gif ボタン(3).gif ボタン(4).gif ボタン(5).gif

第1話 舞鶴市民病院問題発生の裏話

  • 2010.12.25 Saturday
  • 22:47

今回より市民病院問題発生からの経緯を述べる。

舞鶴市民病院が崩壊した原因として、間接的ではあるが、舞鶴共済病院にその一端があると私は推測している。
舞鶴共済病院は準公的病院の使命(公的病院にも当然求められるが)として、病院の中期計画および経営状態を当地域の医療関係者および学識経験者に公開する会議(アドバイザリーボード)を2001年より毎年開催することになった。そのメンバーに舞鶴市長、舞鶴医師会長、舞鶴市内の診療所を経営する院長、保健所長、患者代表、学識経験者を外部より招聘し、併せて、院内の中堅以上の幹部も出席する会議を現在まで続けて来た。この会議から病院経営のノウハウを理解された当時の舞鶴市長は翌年の2002年に「舞鶴市民病院の病院運営の会議に乗り出す方針」を打ち出した。
当時の舞鶴市民病院院長は「医局への権力の介入は止めていただきたい」と防衛されたとのことであるが、「これは、権力の介入ではなく、病院管理者としてこれ以上、慢性的な赤字を放置できない」と説明されたようである。(当時の副院長であった松村理可先生が後に執筆された医学書院発行の地域医療は再生する とのタイトルの著書を参照)
当時の病院長はこの時点で,辞職を決意し、同年9月に新病院長が赴任することとなった。
この後は、明日に続く‥
32444694.jpg


ボタン(1).gif ボタン(2).gif ボタン(3).gif ボタン(4).gif ボタン(5).gif